NICU

次女の妊娠中は、切迫早産から始まり、平坦な道のりではなかった。

妊娠28週の時、赤ちゃんの成長が見られず、3週ほどの遅れだと指摘され、むしろ小さくなっているかも…。と医者に言われそのまま大学病院に行くことになった。

NICU(新生児集中治療室)があるところで、ベットが空いているところを産婦人科が探してくれて、向かう事になった。

元々、体調は良くなくて安静にしていた時期で、実家の世話になっていたので、その日も母と一緒だった。片道1時間程の都心の道を母と2人で車で向かう。ナビをたよりに珍道中。

母は愉快な人なので、私としては最悪な状況ではあったが、2人で楽しく目的地に向かえた。

そんな明るい母に私はいつも助けられていた。

父親である夫はその時も他人事、いったい誰の子どもを私は宿しているんだろう。

でも、そんな事はどうでもいい。赤ちゃんを28週で800㌘程、これで産むわけには行かない。大きくしなければならない。その事で頭が一杯だった。

私には、5歳になる娘がいるので、彼女の幼稚園のお迎え、世話もある。

その当時、全てを母が担ってくれた。パートを続けていたので、辞める事も視野にあったが、母の上司に理解があり、母が動きやすい様に車通勤を容認してくれたり、仕事の時間を融通してくれた。本当に母を筆頭に周りの方々に助けられて、次女の命は守られていたと思う。

大学病院での診断の結果としては、これ!というものはなかった。

成長がゆっくりすぎる、もしかしたら、何らかの障害があるかもしれない。でも、心拍は元気!とにかく安静にして大きく成長させるしかない。

娘は、なんとか肺の形成が出来てるかどうかの34週に帝王切開での出産となった。

緊急入院の時の病院までの道のりさえも、父が仕事を休んで車で送ってくれた。

誰かがやってくれるから、夫は自分なは何もしなくて良いと思っているのではないか。

私だって父親になる彼のことを悪くは思いたくない。その時はモヤッとしたが、そう思って自分を納得させたが、その時から私の不安は膨らんで来たように思う。

出産体重は2221㌘。先生の話とは違った(笑)。1800位と言われて出産に望んだのに…。

思ったよりも大きかったものの、まで自力呼吸は難しく、おっぱいも鼻からチューブでの挿入。

1ヶ月程の入院が決まった。NICUへの入院。

私は毎日病院に母乳を届ける事を、退院後から始めた。体調もあまり良くなくて、それでも車で会いに通った。NICUには、娘よりも小さくて重篤な子が多くて、複雑な気持ちにもなったが、自分の体調等はどうでも良いという気分になった。(そんな時看護師さんは、鋭く見抜いてお見舞いを休む事も大切だよと言ってくれた。)

夫はというと、1回もお見舞いに行こうとせず、私に切れられて一度だけ行った事を覚えている(笑)

私と2人の娘は、私の両親に足を向けて寝られない。

私は、母に沢山の事をしてもらった。それがあったから次女は大きくなれた。長女は私が動けない間、バレエの発表会や幼稚園の事をおばあちゃんにやってもらった。おばあちゃんが居たから寂しくなかったと17歳になった今も教えてくれている。

本当に恥ずかしい話だが私がお金を使うのは病院代のみ、ガソリン代を始めとする8ヶ月間の生活費は全て父が負担したのだ。当たり前とは思っていないが、今思えば当たり前のように甘えていた。

次女は母のお陰で命を繋いだのだ。

感謝してもしきれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました
このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。