リビングのテーブルに、一枚の紙が置いてあった。
病院名と、母の名前と、診断名。
誰も「結果を見てほしい」とは言わなかった。ただそこに、ぽんと置いてあった。
やっぱり、と思った。声には出さなかった。
最初に気づいたのは、食卓だった
実家に立ち寄ったとき、母は一枚の皿におかずをひとつ盛って、それでご飯を食べていた。
以前の母は料理が好きだった。食卓にはいつも何品か並んでいたし、晩酌のワインも欠かさなかった。そのワインが、いつの間にかなくなっていた。
同じことを繰り返し話すことも増えた。でも「年のせいかな」と思っていた。思いたかった。
決定的だったのは、私が実家に泊まった夜のことだ。
当時、私は元夫との離婚を考えていて、荷物を持って実家に転がり込んでいた。翌朝起きると、母が私の荷物を近所の「私の家」に運んでいた。娘のことが心配で、家に帰してあげようと思ったのだろうか。理由は聞けなかった。
同居が始まって、見えてきたもの
離婚の話し合いが続くなか、私は実家に同居することになった。
どの部屋を使うか、どのクローゼットを使うか——最初は「ここを使っていいよ」と言ってくれた。でも荷物を入れると、黙って片付けられた。また入れると、また片付けられた。
娘が「ママ、どのシャンプー使ったらいい?おばあちゃんが使っちゃダメっていう」と言ってきたこともあった。同じブランドのシャンプーを持ってきているのに、何度も何度も怒られた。
生活費は共有の財布に決まった額を入れて、そこから買い物をするというやり方だった。ある日、「お弁当のおかずはあなたたちしか食べない。おやつも食べない。それなのに共有の財布から買うのはおかしい」と言われた。
でも実際には、母もおやつを食べていた。
何かを言えば怒られる。黙っていても怒られる。正解がわからなかった。
夕飯を作っても「まずい」と言って、夜にコンビニのお弁当を買って自室で食べていた。あんなに私たち親子を可愛がってくれた母だった。いろんなものを与えてくれた、何でもやってくれた母だった。
変わっていく母を前に、私は混乱していた。
「この女」と呼ばれた日
私が「お母さん、病院に行くべきだと思う」と言ったとき、母は激しく怒った。
「この女」と呼ばれた。汚いものを見るような目で見られた。「殺したい。死んでも一生許さない」と何度も言われた。
離婚の話し合いで精神的に限界だった時期だった。頼りたかった母に、そう言われた。
それでも私は脳神経外科を調べて、受診を勧め続けた。父に病院の名前を聞かれたとき、緊張して咄嗟に名前が出てこなかったら、「お前の気持ちはそんなもんだ」とたしなめられた。
それでも情報を共有した。
予約しては、母が忘れてキャンセルになった。また予約した。また忘れた。「そんなこと言ってない」「またあの女に何か言われたのか」と繰り返された。
母の手を引いて、追い出された
ある日、私はもう「どうとでもなれ」という気持ちになっていた。
「このままじゃ手遅れになる。理茶が連れていく。お父さんには任せられない」
そう言って、母の手を引いた。
父にどつかれた。そして追い出された。
その後、父と母のふたりで病院に行ったらしい。
リビングの紙
しばらくして、実家に戻ると、リビングのテーブルに紙が置いてあった。
誰も「見てほしい」とは言わなかった。ただそこにあった。
私は心のなかで、ずっと「脳腫瘍であってくれ」と祈っていた。ひどい話だと自分でも思う。でもそれが本音だった。
脳腫瘍なら、手術できるかもしれない。治るかもしれない。
認知症は、治らない。
紙に書かれた診断名を見て、「やっぱり」と思った。
声には出さなかった。
もし、あなたの親が「変わってきた」と感じているなら
認知症の初期症状は、気づきにくい。
同じことを繰り返す、料理が変わった、お酒をやめた——そんな小さな変化が積み重なっていく。そして本人は「自分がおかしい」とは思っていないから、病院を強く拒否する。
おかしいと感じたら、早く動いてほしい。
家族だけで抱え込まず、かかりつけ医に相談するか、脳神経外科・もの忘れ外来に連絡してみてください。予約だけでもいい。情報を集めるだけでもいい。
私のように、一人でリビングの紙を見ることにならないように。
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