家計の財布がない。
「また始まった」と思いながら、心の中でため息をつく。
最初は「とってやる」という宣言だった
母が財布を隠すようになったのは、認知症の診断から3年ほど経った頃のことだ。
といっても、突然始まったわけではない。それより前から、母は折に触れてこう言っていた。
「お父さんは家にいるくせに、小遣いをとっていく。自分の好きなものばかり買って、それを家計のお金で払う。許せない。とってやる」
実際のところ、父がそんなことをしていた事実はない。結婚してから、母はお金に苦労したことがなかった。自分の収入は自分のもの、貯金もたくさんあった。父から欲しいものを買ってもらったり、まとまったお金をもらったりする場面を、私は何度も見てきた。
なのに、なぜそんな言葉が出てくるのか。
ずっと考えてきたが、最近ひとつの答えにたどり着いた気がしている。
母は子供時代、お金のない家で育った。父親がだらしなかった。そのときの不安や記憶が、認知症によって薄れた理性の隙間から出てきているのではないか、と。子供の頃の記憶が、今の父の姿と重なってしまっている。そう思うと、母の言葉が少し違って見えてくる。責めるというより、怖いのだと。
隠す場所は、思いもよらないところ
宣言が行動になっていった。
気づくと家計の財布がない。父の財布がない。探し始めると、出てくる場所はいつも意表をつく。
洗面所の引き出し。化粧ポーチの中。母のカバンの奥。ベッドの周り。そして、マットレスの下。
「ここに隠そう」と意識して選んでいるのか、それとも何となく手が動くのか。本人に聞いても、もちろん覚えていない。
本気で探して、逆ギレされる
財布が消えると、家の空気が変わる。
父はイライラし始める。母は最初、開き直っている。私はとりあえず「入れそうな場所」を黙って探しながら、場を和ませようとする。娘の話を持ち出して話題を変えて、母が探していることを忘れかけたところで「そのうち出てくるよ」と言う。
うまくいくこともある。母がふっと別のことに気が向いて、その場が落ち着く。
でも父は、どうしても探すのをやめられない。イライラがピークになる。すると母は、それをはるかに超える勢いで逆ギレする。
誰も何も言っていないのに、母は突然こう言い出す。
「お母さんが隠したって思ってるんでしょう!」
チーン、となる。
自分で隠しておいて、隠したことを忘れて、本気で探して、逆ギレする。これが認知症の「物隠し」の現実だ。
財布を隠す→父が財布を隠す→母が見つけて隠す
しばらくして、父が対策に出た。
母にわからない場所に財布をしまうようにしたのだ。
これが、さらなる混乱を招いた。
母は母で、財布を「見つけると隠す」ようになった。父がしまった場所を見つけては移し、また父が探し、また母が隠す。そんな攻防が3週間ほど続いた。
最終的に母がその場所を忘れ、落ち着いた。
「後で返すから」
今は、父がお金の管理をするようになっている。
ずっと前から私はそうするよう言ってきたが、当時は聞く耳を持たなかった。いろいろ揉めた末に、自然とそうなった。
それでも、たまに父がいつもの場所に財布を置いてしまうことがある。そういうときは母がすぐに気づく。そしてお金を抜く。
あるとき父が苦笑いしながら言った。
「『後で返すから』って言うんだけどな。返してもらったことは一度もないよ。まあ、別にいいけど」
高額ではない。生活に支障があるわけでもない。でも「別にいいけど」という言葉の裏に、長い時間が詰まっているような気がした。
認知症の「物隠し」に困っているあなたへ
認知症の親が物を隠したり、お金をとるのは、「意地悪」ではない。
本人の中に、消えない不安がある。過去の記憶が混ざり込んでいる。それが行動として出てくる。理屈ではわかっていても、毎日のことになるとつらい。
わが家がたどり着いた対処法はシンプルだった——お金の管理を一人に集中させること。財布を複数置かない、手の届く場所に現金を置かない。それだけで、少し楽になった。
ただ、そこにたどり着くまでに3年以上かかった。
誰かに相談できる場所があれば、もう少し早く楽になれたかもしれない。
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