その日、食卓は和やかだった。
母はいつになく機嫌がよく、楽しそうにしゃべっていた。認知症になってから、こういう時間がだんだん貴重になってきた。私と弟は、ただその時間を壊さないようにしていた。
昼食の場だった。みんなで食べながら、昼ごはんの話をしていた。そのとき、母が夕ごはんの話をした。
私も弟も、自然に話を合わせた。たいしたことじゃない。母の世界に乗っかればいいだけだ。それが今の介護のルールだと、私たちはわかっていた。
でも父は、しれっとこう言った。
「今は昼の話をしているんよ。」
場が、凍った。
母の表情が、一瞬で変わった
楽しそうだった顔が消えた。母は父を睨みつけた。そして、今度は私を見た。「あなたも見てたでしょ」と言わんばかりの目で。
私は何もしていないのに、その目を受けた。
母は無言で立ち上がり、自室に戻っていった。しばらくして、ガタン、ガタンと何かを動かす音が聞こえた。
やがて、着替えた母が戻ってきた。財布を探しながら、こう言った。
「こんなとこにいても仕方がない。」
自分の家で、そう言った。財布は見つからないまま、母は何も持たずに玄関へ向かった。
父に、言わなければならなかった
母が自室にいるうちに、私は父に言った。
「たとえばさ、今みたいな時。やっぱりお父さん、余計なこと言うんだよ。悪気はないのはわかってる。でもお母さん、あの瞬間まで楽しそうにしてたでしょ。前みたいに突っ込みを入れたくなる気持ちはわかる。でも今は、それが全部裏目に出るんよ。」
父は黙っていた。
父が言った言葉——「病人扱いはしない」
別のとき、父はこう言っていた。
「病人扱いはしない。本当のことは教えないと。」
その気持ちは、わかる。何十年も対等に生きてきた夫婦だ。急に「合わせる」なんて、できないんだと思う。訂正するのは、バカにしているんじゃなくて、対等に向き合いたいからなのだ。
でも私はこう思う。
今のお母さんに必要なのは、正しい情報じゃない。「この場所は安心できる」という感覚だ。正しさより、今日この瞬間が穏やかであることの方が、みんなにとってずっと大事なんじゃないか、と。
なぜ「正しいこと」が逆効果なのか
認知症になると、短期的な記憶が失われていく。「今は昼だよ」と訂正されても、母にはそれが「正しい情報」として届かない。届くのは、「否定された」という感情だけだ。
母の中では、夕ごはんの話をしていた。それは母にとってのリアルだった。そこに「それは違う」と入ってくる言葉は、母の世界を頭ごなしに否定することになる。
正しいかどうかより、今この瞬間に母が感じていることの方が、ずっと大切なのだ。
弟の「神対応」から学んだこと
財布が見つからないまま出かけようとした母を、弟が止めた。
近所のゴシップネタをぶっ込んだのだ。
母のスイッチが切り替わった。「え??」という顔になって、目が輝いた。弟がさりげなく「ま、座って」と言うと、母は何事もなかったかのように座った。空気が、変わった。
これが正解だった。「正しいことを言わない」だけじゃなく、「感情ごと別の場所に連れていく」。それが認知症介護のコツなんだと、弟に教えてもらった気がした。
お父さんへ
お父さんは、毎日お母さんのそばにいる。それだけで、すごいと思う。私には到底できない。
ただ一つだけお願いがある。
お母さんが楽しそうに話しているとき、その世界を壊さないでほしい。たとえそれが「間違っていても」。
「こんなとこにいても仕方がない」と言いながら、財布を探していた母の姿を、私はまだ忘れられない。自分の家で、居場所を失ったような顔をしていた。
正しさより、お母さんの笑顔の方が、私にはずっと大事だから。
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