認知症の母が「ごはん食べてない」と言う——食べた記憶だけが、抜け落ちていく

食べてない、と母は言った。でも、母は食べていた 介護の知識

夏のある日、実家に寄ったら、母がカツ丼を温めていた。

その日、母は友達と出かけていた。朝から車で迎えに来てもらって、昼をはさんで帰ってきたはずだった。

「お昼、どうだった?」と聞いたら、母はこう言った。

「昼ごはん、食べてない」

あとで分かった。母は、食べていた

そのとき私は、少し混乱した。父は父で「食べて帰ってきた」と思っている様子だった。じゃあ本当のところはどっちなんだろう、と。

後日、母から少しずつ聞いて分かった。その日、母は友達と車の中で食事をしていた。お店には入らず、買ったものを車内で食べたらしい。

つまり、母は食べていた。

それでも母は、私に「食べてない」と言った。嘘をついたわけでも、ごまかしたわけでもない。母の中では、本当に食べていなかった。

体験が抜けて、「お腹が空いた」だけが残る

認知症で失われるのは、「昨日の出来事」みたいな遠い記憶だけではない。さっき自分がしたことが、まるごと抜けることがある。

食事でいえば、こういう形になる。

「食べた」という体験だけが消えて、「お腹が空いている気がする」という感覚のほうが残る。

この順番が大事だと思っている。母は「食べたことを忘れた」というより、お腹の感覚を手がかりに、いまの状況を組み立て直している。手元に「食べた」という材料がないのだから、出てくる答えは「まだ食べてない」しかない。

同じことは、食事以外でも起きていた。その日2回目のシャワーを浴びたあと「まだ入っていない」と言い張った日もあったし、私と電話した直後に、電話したこと自体を忘れていた日もある。

抜けるのは記憶で、残るのは感覚。母の言葉は、いつもそのルールに従っている(認知症の親が何度も同じ話をするのはなぜ?——「財布がない」の裏にある仕組みと、家族が楽になる考え方)。

これは、うちだけの話じゃなかった

「食べたこと自体を忘れる」は、母に特有のことではなかった。調べてみたら、国が出している資料に、ほとんど同じことが書いてあった。

政府広報オンラインの「知っておきたい認知症の基本」は、加齢によるもの忘れと認知症によるもの忘れの違いを、こう分けている。

加齢によるもの忘れ=体験したことの一部を忘れる。例として挙がっているのは「朝ごはんを食べたことは覚えているがメニューが思い出せない」。

認知症によるもの忘れ=体験したことの全てを忘れている。例は「朝ごはんを食べたこと自体を忘れている」。

——母そのままだった。教科書の代表例として、うちで起きていることが載っていた。

仕組みのほうも調べた。国立長寿医療研究センターによると、認知症の原因でいちばん多いアルツハイマー型認知症では、記憶に関係する海馬とその周辺が早い段階で傷つき、新しい記憶のほうが残りにくくなるという。

だから、遠い昔の話ではなく「さっきのこと」から抜けていく。母が何十年も前の話をすらすら話すのに、1時間前の昼ごはんを忘れるのは、そういうことだった。

もうひとつ、心に残った研究がある。アメリカ・アイオワ大学のグループが2014年に発表したもので、アルツハイマー病のある人に悲しい映画と楽しい映画を見てもらったところ、「何を見たか」を忘れたあとも、そのときの感情はしばらく続いていたという報告だ。

これは空腹の研究ではないから、そのまま母に当てはめることはできない。それでも、出来事は消えても、そのとき湧いたものは残る——という形は、うちで毎日見ているものとよく似ている。

だから私は、こう思うようになった。母は嘘をついていない。ごまかしてもいない。母の中では、いま本当にお腹が空いている。

「食べたよ」は、たぶん通じない

母が「食べてない」と言ったとき、父はこう返す。

「食べたよ」

短いし、事実だ。私だって、とっさに同じことを言うと思う。

でも、たいてい通じない。母の中に「食べた」という材料がないのだから、「食べたよ」は否定にしか聞こえない。そして母は怒る。

認知症の介護で正しいことを言っても届かない、というのは、うちが何度も学び直してきたことだ(認知症の親に「正しいこと」を言ってはいけない。父が教えてくれた、その理由。)。分かっていても、毎回できるわけじゃない。

効いたのは、訂正じゃなくて「次の一手」だった

別の日のこと。夕方、母から電話がかかってきた。

「とんかつ、持ってこなくていいから」。機嫌の悪い声だった。

その日の昼、私は実家に揚げたとんかつを届けていた。母はそれを覚えていない。夕飯のことを考えはじめて、何かが引っかかって、電話をかけてきたのだと思う。

私はこう言った。

「昼間に冷凍庫に入れたよ。揚げてあるから、チンして食べて」

母は「ごめんね、忙しいときに」と言って、すぐに電話を切った。声は、安心したように聞こえた。

あとから思ったのは、これが効いたのは「訂正」ではなく「次の一手」だったからじゃないか、ということだ。

「届けたでしょ」は訂正になる。でも「冷凍庫にあるよ、チンして」は、いまから母がやれることになる。過去を巡って言い合うのをやめて、今できることをひとつ渡す。それだけで、母は自分の足場を取り戻せる。

うちの「食べすぎ」は、二度食べじゃなかった

「食べたことを忘れる」と聞くと、同じごはんを二回食べてしまう場面を想像すると思う。でも、うちで実際に起きているのは、もう少し地味な形だ。

お腹が空いていて、そこにあれば食べてしまう。

とくに、菓子パン。母は昔から好きだし、袋を開ければすぐに食べられる。ごはんを食べたあとでも、目に入れば食べる。

そして、逆回りも起きる。

菓子パンを食べてしまったから、昼ごはんを食べる気にならない。ところがしばらくすると「何も食べてない」が始まる。そしてまた、菓子パンを食べる。

——ぐるっと一周してしまうのだ。

見えていれば、そこに戻れる。見えていれば、食べてしまう

うちは、母のために「見えるように置く」工夫をたくさんしてきた。下着は引き出しをやめてカゴに種類別に。よく使うものは、しまわずに出しておく。見えていれば、そこに戻れるからだ(父がいない夜、母はずっと怒っていた。——それでも、テーブルを整えたら落ち着いた話。)。

でも、食べ物だけは逆だ。

見えていれば、食べてしまう。

同じ「見える化」が、下着では助けになって、菓子パンでは効きすぎる。認知症の工夫には、こういう裏表がある。ひとつの正解が家じゅうに通用するわけじゃない。

ちなみに、食事そのものは週3回の配食で回している。母が「作らなきゃ」と思わずに済む日をつくるためだ(配食サービスを入れて変わったこと——おかずだけ頼む、うちのやり方)。

それでも、菓子パンは止めないことにした

父と買い物に行けば、母は菓子パンを欲しがる。父は買う。断れば、母の機嫌が悪くなるからだ。

私も、止めていない。そこまで害にならないのなら、好きにすればいいと思っている。

ここから先は、書くべきか少し迷った。

母は73歳。認知症以外は健康で、体はしっかりしている。このままなら、たぶん長く生きる。

でも、母はそれを望んでいるだろうか。

私は、母ならこう言う気がしている。好きなものを食べて、ゆっくり進んで、家族に惜しまれながら、静かに逝きたい、と。

だから、健康に気をつけすぎて母の機嫌が悪くなるのは、なんだか違う気がしてしまう。菓子パンを取り上げて、不機嫌な母と過ごす時間を増やすことが、誰のためになるのか分からない。

——こんなことを書くのは、良くないのかもしれない。

ただ、ひとつだけ線は引いている。食べすぎより、食べない日のほうが心配だ。母は昔からの習慣で毎日体重を測っている。その数字が続けて落ちるようなら、そのときは考える。

それに、母は「できなくなった人」でもない。先日、実家に行ったら、母が自分で焼きそばを作って食べたあとだった。できない日ばかりじゃない。だから私は、まだ決めつけないでいようと思っている。

「お腹空いてるなら、食べれば」

父は、母に「食べたよ」と言って、怒られる。

でも父は、それを気にしていない。しばらくして、こう言う。

「お腹空いているなら、食べれば」

これが、うちの答えなのだと思う。

父は、「食べた/食べてない」の話をやめて、「いまお腹が空いているかどうか」の話に切り替えている。記憶を争うのをやめて、本人の感覚のほうを立てている。

勝とうとしていない。ただ、母のいる場所に合わせている。

私はまだ、そこまで上手にできない。「食べたでしょ」と言ってしまう日もある。

それでも、そうありたいと思っている。

参考にした資料

この記事で「体験そのものが抜ける」と書いた部分は、次の資料をもとにしています。どれも無料で読めるので、気になる方はぜひ元のほうも読んでみてください。

知っておきたい認知症の基本|政府広報オンライン
「加齢によるもの忘れ」と「認知症によるもの忘れ」の違いが、朝ごはんの例で並べて説明されています。いちばん分かりやすかった資料。

もの忘れと認知症|国立長寿医療研究センター
アルツハイマー型認知症で海馬とその周辺が障害され、新しい記憶が残りにくくなること、認知症の診断がどう行われるかが書かれています。

Feelings Without Memory in Alzheimer Disease(PubMed)
アイオワ大学のGuzmán-Vélezらによる2014年の研究(Cognitive and Behavioral Neurology誌)。映画の内容を忘れたあとも感情が続いていたという報告です。英語ですが、要旨だけでも雰囲気は伝わります。

※この記事は、認知症の母を介護している家族としての体験と、調べたことをもとに書いています。症状の出方には個人差があります。食べない日が続くとき、体重が落ちてきたとき、飲み込みにくそうなときは、遠慮なく主治医やケアマネジャー、地域包括支援センターに相談してください。「食べすぎ」より「食べない」のほうが、体には早く響きます。

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