友達に言われたことがある。認知症の話をしていたときだ。
言い方は少し違ったけれど、こういう意味だった。
理性が飛ぶんだから、抑えていたものが溢れてしまう。我慢して、誰かのために頑張ってきた人なら、根底にあった気持ちや行動が出てくる。根底にそういうものがなければ、そうはならない。
責めるための言葉ではなかった。むしろ、母をかばうような言い方だったと思う。
それでも、ほっとはしなかった
「病気のせいだよ」と言ってもらったわけではないから、というのもある。でも、それだけではなかった。
私がそのとき思ったのは、母の人生のほうだった。
母は、いろんなことを我慢してきたんじゃないか。それを我慢とも思わず、必死に生きてきたんじゃないか。
そしてもうひとつ。自分もそうなるんじゃないか、と怖くなった。
あの頃の母が、していたこと
私が高校生、弟が小学生の頃の話だ。
父の帰りは遅かった。駅まで迎えに行くのは母だった。深夜になる日もあった。それでも翌朝は早く起きて、私と弟の弁当を作り、昼間はパートに出ていた。
家には祖父母が同居していた。母は、周りの人から実の親と間違われるほど、朗らかに世話をしていた(父が言った「幸せの貯金」という言葉)。
祖父が入院してからは、そこに毎日の見舞いが足された。パートは続けたまま。かなり疲れていたと思う。
その頃、父が海外旅行を計画したことがあった。行き先はオーストラリアだった。
母は、はじめは乗り気ではなかった。「おじいちゃんたちがいるのに」と言って。
きょうだいは三人。いちばん上の私が高校生だった。留守くらい何も問題ないよ、と私たちも言った。行っておいで、という気持ちだった。
それでも、出発の直前に祖父が入院して、母が「キャンセルしよう」と言った。旅行は無くなった。
一度ではない。
母は淡々としていた。「もう行かない」——それだけだった。
日をずらすこともできたはずだ。行き先を国内に変えることもできたはずだ。選べる道は、いくつもあったと思う。それでも母は、もう行かない、と言った。
そのあと、母はこう言っていた。
「残念、というか。もう、だから嫌なのよ」
「もう別に、お父さんと二人で出かけたくない」
当時の私は、その言葉を聞き流していた。
母は明るい人だった。疲れてイライラすることはあったし、怒ることもあったけれど、それも含めて人間らしい母だった。裏表のない人だった。家はいつも賑やかで、私は母が好きだった。
だから、母が何かを飲み込んでいるなんて、思ってもみなかった。
そして祖父のことは、最後まで母が看取った。
そして今、母は父に言う
先日、何の話からか、父が「長生きしない」と言った。そこから、どっちが先に死ぬか、という話になった。
父は「自分のほうが確実に先に死ぬから」と言い、母は、自分が先だと言う。
そして母は、父に向かってこう言った。
自分だけ死ぬのは腹が立つ。お父さんだけ楽しいのは許せないから、化けて出て首を絞めてやる
そういうことを言うときの母は、意地の悪い顔をしている。
——並べてみると、つながって見える。
旅行に行けなかった母。「二人で出かけたくない」と言った母。そして「お父さんだけ楽しいのは許せない」と言う母。友達の言うとおり、抑えていたものが溢れているように見える。
でも、祖父も同じことを言っていた
ここで、思い出したことがある。
認知症だった祖父も、怒りっぽい人になった。よく母と喧嘩していた。そしてこう言っていた。
「殺してみ〜!」
祖父の介護がどんなものだったかは、特養の順番待ち、その間どうする?に少しだけ書いた。ここでは繰り返さない。
祖父と母は、別の人間だ。別の人生を生きてきた。抱えてきたものも違う。
それなのに、同じ種類の言葉が出た。
共通しているのは、認知症という病気だけだ。
ちなみに祖父のことも、当時の私は「今日から急にボケた」みたいに思っていた。でも違った。じわじわ来ていた。完全に分からなくなったのは最後のほうで、その何年も前から、少しずついろんなことが起きていた。母のときも、私は同じ見落とし方をした(認知症の始まりは、父が食器を洗いはじめた頃だった)。
調べてわかった、三つのこと
「本性が出る」が本当なのか、調べてみた。
ひとつめ。「抑制がきかない」には、ちゃんと名前がついている。
国立長寿医療研究センターは、認知症でみられる認知機能障害のひとつに「社会的認知・判断の障害」を挙げていて、その説明にこう書かれている。「他人に共感したり、同情したりすることができない、抑制がきかない」。
誰でも、腹が立ったときに意地の悪い考えが頭をよぎることはある。元気な脳は、それを口に出す前に止めている。その止める力のほうが、病気で壊れる。
ふたつめ。いちばんひどい言葉は、いちばん近い人に向く。
認知症の人と家族の会で長く連載している医師の杉山孝博さんは、こう書いている。認知症の人は「よく世話をしてくれる介護者に最もひどい症状を示し、時々会う人や目上の人にはしっかりした言動をする」。そしてそれは嫌がらせではなく、介護者を絶対的に信頼しているから症状を強く出すのだ、と。
誰に向くかを決めているのは、恨みの深さではなく、距離の近さだということになる。
みっつめ。うちでは、薬が変わって言葉が変わった。
母の攻撃性がいちばん強かった頃、「死ぬ」「殺す」という言葉が出ることがあった。主治医を変えて薬が変わり、1か月ほどで、その言葉を聞かなくなった(認知症の親の主治医を変えた話)。
本心は、薬で1か月では変わらないと思う。
母自身が、止めようとしていた
もうひとつ、忘れられない場面がある。
イライラしている母が、自分で深呼吸をしていた。どうしたのか聞くと、母はこう言った。
「ため息をつかないと、お父さんに何するかわからないから」
本気で誰かを傷つけたい人は、自分を止めようとしない。
母は、自分の中のブレーキが効かなくなっていることに、どこかで気づいていたのだと思う。
溢れているのは、気持ちではなく「時間」かもしれない
それでも、母の言葉には材料がある。旅行をあきらめた日も、二人で出かけたくないと思った気持ちも、たしかに母の中にあったものだ。
だから私は、こう思うようになった。
溢れているのは「本性」ではなく、あの頃の時間なんじゃないか。
いまの母は、父のことを「何もしない」と言う。食事の支度も洗濯も、今は全部父がやっているのに(父の一日)。母の中では、自分が家事を全部やっていた時代が、まだ「今」になっている。
夜に「家に帰りたい」と言う人が、帰りたがっているのは今の家ではなく昔の家だ、という話がある(認知症の夜の徘徊はなぜ起こる?)。それと同じ形だと思う。
出てきているのは、母の本性ではなく、母が生きてきた時間のほうだ。そしてそれを選んで出しているわけでもない。
それでも、自分が怖い
こう書いておきながら、怖さは消えない。
母がそうなら、私もそうなるんじゃないか。我慢していることを、我慢と思わずに生きて、いつか全部こぼしてしまうんじゃないか。
娘に「ボケたら許さないから!」と言われたとき、笑いながら、少し本気でうろたえた。それから私は、胡桃を食べたり、よもぎ茶を飲んだりしている(娘に「ボケたら許さないから!」と言われた私がやっていること)。
予防のためというより、怖さの置きどころなのだと思う。
周りには、いない。正確には、いるけれど違う
認知症は65歳以上の5人に1人と言われている。それなのに、周りにはそんなにいない。
調べてみたら、理由があった。内閣府の資料によると、認知症の割合は75歳を過ぎてから大きく上がる(90歳以上では6割を超える)。母は70代前半で診断された。同じ年代の親を持つ友達の家では、まだ起きていないのだ。
友達の親の話を聞いて、「いいなあ」と思うことがある。一緒に食事に行ったとか、旅行に行ったとか。うちはもう、それができない。
両親が80代で、二人とも特養に入れた友達もいる。経験があるから、アドバイスもくれる。ありがたいと思う。それでも、感情が追いつかないときがある。年齢も、進み方も、家の事情も違うから。
認知症の人と家族の会は、家族がたどる心の段階の第1ステップを「とまどい・否定」と呼んでいて、その時期はほかの人になかなか相談できず、一人で悩む時期だと書いている。人に言いにくいと感じるのは、私だけではないらしい。
あのころ母が、何を思っていたのか
このブログのはじめのページに、私はこう書いた。祖父の介護をしていたのは母で、当時は介護保険もなく、母はひとりでやりきった。あのころ母が何を思っていたのか、今になって考えることがある、と。
今なら、少しだけ分かる気がする。
母はたぶん、何も思わないようにしていた。思ってしまったら、続かなかったから。
その母が、今は思ったことを全部口に出す。順番が、逆になっただけなのかもしれない。
母は、行かなかった。それを選んだ。そういう人なのだと思う。
責めているのではない。何を選ぶかは、人によって違う。
ただ、私は、違う選択をする人になりたい。
「本性が出る」と言われたとき、私が知りたかったのは、母がどんな人だったかではなかった。母が、どれだけのものを飲み込んで生きてきたのか、だったのだと思う。
※この記事は、認知症の母を介護している家族としての体験をもとに書いています。症状の出方や薬の効き方には個人差があります。気になることがあれば、主治医やケアマネジャー、地域包括支援センターに相談してみてください。

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