母はお買い物が好きだった。
いつも決まったデパートに一緒に出かけた。私はあらかじめ母が好きそうな服をチェックしておいて、一緒に行った時に「これどう?」とプレゼンするのが定番だった。母は50代後半から自分で服を探しに行くことが少なくなっていたから、私がその役を担っていた。ショッピングが大好きな私には、苦じゃなかった。むしろ楽しかった。
母が「あら、いいじゃない」「買っちゃえば?」と背中を押してくれた。財布の紐が緩んだ。時には母が買ってくれることもあった。「大丈夫、あるから」と断っても、母が勝手にデパ地下で食品をカゴに入れてしまう。そういう人だった。
ある時から、何かが変わっていった
ある時から、私が足を止めると、母が姿を消すようになった。
「いらないでしょ」と冷たく言う。私は「つまらないじゃん、いなくなんないでよ」と冗談っぽく怒ったりもした。母は「お母さん、お買い物面倒になっちゃった。ごめんね」と言った。
今思えば、あれが病気の兆候だった。
認知症と診断されてからの買い物
認知症と診断されてからも、気晴らしになるからと、母の方から誘ってくれることが多かった。一緒に出かけること自体は、まだできていた。
でも少しずつ、おかしなことが増えていった。
「これ買ってあげる」と言って、母が私の分もカゴに入れてくれる。いざ会計になると、「なんでこんなの入ってるの?」と怒り出す。さっきまで笑顔だったのに。
財布を開けると、空っぽだったこともある。結局私が払う。シングルで子ども二人を抱えている私に、デパート地下で散財する余裕はない。母は若く見えるから、レジの店員さんが「?」という顔をする。その場をどう収めようか、なんとも言えない気持ちになった。
柿安の牛肉を「買ってあげる」と500g注文してくれた日もあった。自分用にも300g入れて、会計のとき「なんでこんなの入ってるの?」と怒り出した。私は予算オーバーの肉を買う羽目になった(笑)。笑うしかなかった。
駐車場でUターン
ある時から、デパートの駐車場で急に「帰る」と言い出すようになった。
そのまま一人で歩き始める。私が送るのを待てない。結局、駐車場からUターンして家に帰るだけになった。
今は、買い物に誘っても行きたがらない。
母がデパートで「買っちゃえば?」と笑ってくれていた頃のことを、時々思い出す。
あれは「アパシー」だったのかもしれない
あとから知ったことだけど、認知症の始まりには「アパシー(意欲低下)」と呼ばれる状態があるらしい。何をするのも面倒になって、興味がわかなくて、やる気が出ない。一見うつみたいだけど、うつのように気分が沈むわけじゃなくて、ただ何事にも関心がなくなっていく——そういう状態なんだそうだ。
もの忘れやひとり歩きとちがって目に見えにくいから、家族も気づくのが遅れやすい、と書いてあって、胸が詰まった。母が「お買い物面倒になっちゃった」と言ったあの日。あれは、わがままでも、私を邪険にしたわけでもなかった。たぶん本人にもどうしようもない、病気の始まりだった。
あのとき私は気づけなかった。でも、もし今これを読んでいる人のお母さんが、急に出かけるのを嫌がったり、好きだったことに興味をなくしていたら——それは「年のせい」や「うつ」じゃなくて、認知症の入り口かもしれない。
▶ 介護に関するサービスや施設について、もっと知りたい方へ
24時間365日対応の介護保険外のオーダーメイド介護サービス【イチロウ】📖 あわせて読みたい


コメント