郵便局から帰ってきた父は、疲れた顔をしていた。母が「お金を下ろした」と言い張って、大騒ぎになったのだという。通帳を探し、キャッシュカードを探しても、どこにも見当たらない。それでも母は「下ろした」と言い続けた。
結局、二人で郵便局へ行った。本人が行ったので手続きそのものはできたが、お金を下ろした形跡はどこにもなかった。それでも母は「あるはずのお金がない」と怒っていて、父は何も言わなかった。
「父が管理する」という解決策と、その代償
それからは、父が通帳を管理するようになった。現実的な判断だと思う。けれど、それはそれで新しい問題を生んだ。
「私のお金なのに、なんで?」——母にとって、夫が通帳を持っていることは「盗られた」のと同じだった。怒りの矛先は、いつも一番近くにいる父に向かう。介護している側が、泥棒扱いされてしまうのだ。
さらに厄介だったのが、ネットバンキングとネット証券だった。手続きの本人確認が電話で行われるため、母の声で、母自身が答えなければならない。
ある日、たまたま実家に立ち寄ると、ちょうど父がその電話の最中だった。私の顔を見るなり、受話器を手で押さえて、父はこう言った。「お母さんのふりして」。
父が私に面と向かって何かを頼むことは、めったにない。そういう人だ。その父が、困り果てた顔で頼んでいる。なんとかしてあげたかった。
けれど、失敗した。「若い声だ」と気づかれ、そこからまた大騒ぎになってしまったのだ。結局は本人である母が電話口に出ることになり、そのやりとりの中で、認知症であることも相手に伝わってしまったらしい。手続きは一度、仕切り直しになった。
その後どうなったのかは、父から聞いていない。聞けなかった、というほうが正しいかもしれない。
嘘はいけない。でも、正直にやろうとすると、何もできない。そのどちらでもない場所で、父も私も立ち往生していた。
名前が書けなくなった日
いつ頃からか、母は自分の名前を書けなくなっていた。
病院で何かあったらしいことは、薄々知っていた。けれど父から詳しく聞いたわけではない。この家では、できなくなったことはあまり言葉にされないのだ。
それにはっきり気づいたのは、実家に立ち寄ったときだった。父が母に、紙とペンを渡していた。「ほら、もう一回」。母は渋々ペンを持つけれど、途中で止まってしまう。筆が動かない。「なんでこんなことしなきゃいけないの」——母の声が少し高くなる。そこから先は、見ていられなかった。
そういう場面に、何度か遭遇した。そのたびに、その場の空気が張り詰めた。やがて父は、何も言わずにそっと練習をやめた。
それでよかったのだと思う。でも同時に、私はある現実に気づいてしまった。このままでは、母は自分の名前で何の手続きもできなくなる、ということに。
成年後見制度を調べた、そしてやめた
私は、成年後見制度をさらっと調べてみた。
名前が書けない、本人確認ができない、このままでは母が自分のお金を動かせなくなる——そう思ったときに頭に浮かんだのが、この制度だった。父には「こういう方法もあるよ」と伝えた。私がしたのは、それだけだった。
その後、父と弟が相談したらしい。私には知らされなかったが、いつものことだ。弟は遺言書の作成などを仕事にしていて、こうしたことには私より詳しい。父も、私より弟に相談しやすいのだろう。それはわかっている。
何週間か経った頃、私はちょうど父と母の揉め事の渦中にいた。名前の練習をめぐって母が荒れ、父の生活の質が目に見えて下がっていた時期だ。そのことを弟に相談すると、こう言われた。「色々相談して考えてるから大丈夫だよ。成年後見は得策じゃないからやめたよ」。
何週間も、私はその問題の渦中にいた。父が疲弊していくのを見て、母が荒れるたびに間に入っていた。それなのに、私が知らされたのは、弟のその一言だけだった。
「あら、そう」。そう思っただけで、それ以上は聞かなかった。
成年後見制度、やめた理由
弟が「得策じゃない」と言った理由を、私なりに調べてみた。調べるほど、うちの母には合わないとわかった。
まず、一度始めると原則としてやめられない。本人が亡くなるまで続く制度だ。「やっぱり必要なかった」では済まない。
費用もかかり続ける。弁護士や司法書士が後見人になった場合、毎月2万〜6万円程度の報酬が発生する。年間で数十万円、数年続けば数百万円になることもある。
財産が一定額以上ある場合、家族ではなく専門家が後見人に選ばれることが多い。つまり、見知らぬ人が母のお金を管理することになる。
そして一番大きいのは、これだと思う。
本人の財産は「本人のために必要な支出」にしか使えない。旅行、贈り物、孫への援助——後見人が「必要ない」と判断すれば、認められないことがある。
母はまだ、自分のお金を自分の意思で使いたいと思っている。その気持ちは本物だ。認知症になっても、その気持ちまで奪うことはしたくなかった。
手続きも複雑で、家庭裁判所への申し立てが必要になる。書類も多く、決定まで数ヶ月かかることもある。
これだけの負担を負ってまで、母の意思を縛る制度を使うべきか。答えは出た。
成年後見・家族信託・任意後見——どう違う?【早見表】
「成年後見はやめた」と書きましたが、では他にどんな方法があるのか。私が調べる中で出てきた選択肢を、ざっくり表にまとめておきます。どれが合うかは家族によって本当に違うので、ひとつの目安として。
家族信託について詳しくは → 家族信託とは?費用・デメリット・成年後見との違い——間に合わなかった私が、今だから伝えたいこと
| 項目 | 成年後見(法定後見) | 任意後見 | 家族信託 |
|---|---|---|---|
| いつ始める | 判断能力が下がった後 | 元気なうちに契約、低下後に開始 | 元気なうちに契約 |
| 誰が管理する | 家庭裁判所が選ぶ(専門家のことも) | 本人が選んだ人 | 家族など信頼できる人 |
| 財産の使い方 | 本人のために必要な分のみ | 契約で決めた範囲 | 契約で柔軟に決められる |
| 途中でやめられる? | 原則やめられない | 条件つきで可 | 契約で設計できる |
| 費用の目安 | 専門家後見だと月2〜6万円ほか | 契約・監督人の費用 | 初期費用(契約・登記など) |
| 向いているケース | すでに判断力が大きく低下 | 将来に備えておきたい | 柔軟な財産管理・相続まで考えたい |
では今、どうしているか
完璧な答えは、まだない。
でも、少しずつ動いている。
まず遺言書を作ること。銀行口座は少しずつ解約して、近所の郵便局ひとつに集約していく。母が長年使い慣れた場所だ。大騒ぎになったこともある、あの郵便局だ。でも、顔を知っている窓口の方がいて、本人確認もしやすい。不動産は売る方向で動いている。証券も、時間はかかるが一つずつ整理している。
全て父が管理している。
サインについては、正直に書く。
母は今、自分の名前をきれいに書くことができない。ただ、手続きによっては署名が不要なこともある。そして父が手を添えて、母に書かせることを、認めてもらえる場面も実際にある。大きな声では言えないが、それが現実だ。
そしてここに、認知症の不思議な時期があると思う。
サインはできない。でも、意思はある。「私のお金をどうしたいか」という気持ちは、はっきりしている。できないことと、わかっていることが、バラバラに存在している時期。
これは、うちの母だけではないかもしれない。認知症の進行の中で、こういう段階を経る方は多いのではないかと思っている。
それでも母は時々、私に電話をかけてくる。
「私のなのに。通帳はどこ?」
怒った声で。でも以前よりは、その回数が減ってきた。
それが今の、私たちの現実だ。
よくある質問(成年後見制度)
Q. 成年後見制度は途中でやめられますか?
A. 原則として、本人が亡くなるか判断能力が回復するまで続きます。「やっぱり必要なかった」では基本的にやめられないため、始める前に慎重に検討することが大切です。
Q. 後見人には家族がなれますか?
A. なれる場合もありますが、財産が一定額以上あると、家庭裁判所が弁護士・司法書士などの専門家を選ぶことが多くなります。その場合は毎月の報酬(目安2〜6万円)がかかり続けます。
Q. 成年後見を使わずに親のお金を守る方法はありますか?
A. 元気なうちなら「任意後見」や「家族信託」という選択肢があります。日常的な範囲のお金の管理なら、各市区町村の社会福祉協議会が行う「日常生活自立支援事業」も使えます。どれが合うかは状況によるので、専門家への相談がおすすめです。
Q. 認知症が進んでからでも間に合いますか?
A. 家族信託や任意後見は「契約できる判断能力」が必要なため、進行してからでは難しくなります。判断能力が大きく低下した後は、選べるのが成年後見だけになることもあります。だからこそ、早めの検討が大切です。
最後に——同じ悩みを抱えている方へ
成年後見制度は、決して悪い制度ではない。状況によっては、家族を守る大切な手段になる。
ただ、うちの母には合わなかった。本人の意思がまだある。お金を自分のために使いたいという気持ちがある。その気持ちを、制度で縛ることが正解だとは思えなかった。
正解は、家族によって違う。
もし同じように悩んでいるなら、まず専門家に相談することをすすめたい。制度を使う使わないに関わらず、話を聞いてもらうだけで、頭が整理されることがある。
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成年後見のほかにも、親のお金を守る備えはあります。「おやとこ」は、認知症による資産凍結対策に特化した家族信託の無料相談サービス。家族がお金を管理する仕組みを、専門家に無料で相談できます(全国対応・オンライン面談OK)。親が元気なうちにしか使えない備えです。
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